これはマズイ!といことで、細かいところはあとから修正することにしてとりあえず記事をアップしとこう!
この記事のみ、追記表記せずに随時更新する形にするので、最終更新日を記事に載せときます^^;
個人的な注記もいれているので、演者の意図した内容とは異なることも有り得るし、間違っているかも。他にもお気づきの点等はコメントいただけるとうれしいです。
ということで最終更新日→2008/12/04
長い記事になってしまったので、小内先生の部分は別記事にしました。
(前置き長すぎ^^;)
■■■簡単なフォーラムのプログラム■■■
左巻健男氏 挨拶 10分
菊池誠氏 「ニセ科学問題の見取り図」 40分
田崎晴明氏 「科学を教えること、伝えること、そして「ニセ科学」」 40分
小内亨氏 「ニセ科学健康情報の見方・考え方」 80分
討論 40分
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●左巻健男氏
・栃木県小山市出身で、「左巻」さんという姓はその地域に多いらしいw
すみません、他の話はあまり聞いていませんでした。
●菊池誠氏 演題の「見取り図」は現在作成中とのことで…。
【ニセ科学の定義】
→「(非専門家の目から見て)科学理論に見せている、見えている。」
科学を装っている、ということが大事で、科学的な手続きとっていない理論。検証をしていなかったり、整合性がとれなかったり。
例としては、創造論科学(ID論)、ルイセンコ事件、ニューエイジ、ホメオパシー、マイナスイオン、ゲルマニウム、ゲーム脳、EM菌など。日本発の「水からの伝言」は、ニセ科学として名作。(←ニセ科学批判の聴衆より笑い)
【ニセ科学に関わる問題】
→実際に行政や市民運動に利用されてしまっている。
例としては、水俣病関連「医学者は公害事件で何をしてきたのか」(著:津田敏秀/岩波書店)の紹介、原発を巡る科学行政の歴史、「買ってはいけない」、怪しい「エコ」など。
【利用された原因の考察】
→科学と意思決定の問題があるため。
意思決定をするにあたり、科学的知見は合理的に受け入れなければならないが、最後の一線の引き方(決定を下す)には科学だけでは一意に決まらない。
また、背景として、二分法的理論への依存傾向、ゼロリスク信仰、科学というものへの誤解などが挙げられる。
最近の出来事として、あるあるの捏造事件、江原の旭川大学客員教授招聘辞退の話、大阪の議員会館でウォーターエネルギーシステム発表会の件、関東地区女性校長会総会で江本氏の講演の件、橋下府知事のEM団子事件など。
とくに「あるある事件」あたりで思うことは、テレビ局は「科学の手続き」を本当に知らないのでは、ということ。ExperimentとDemonstrationの違いがあり、テレビは(視聴率至上主義なわけで)Demonstration側になる。
また、女性校長会で江本氏講演の件では、どれだけ批判側の声が届いていないかを痛感させられる。
ここから考えられるのは「批判側のマーケティングの問題」。
ニセ科学は「情緒」に訴えかける、という点で批判側はすでに負けている。そして「善意の人を説得する」ことの困難さ(ってか無理)の確認。大槻先生ではダメだろ…と。
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前の記事でも書いたが、やはりニセ科学への対抗は非常に困難な状況なんだよな。
例えばネットでも露出(見られること)の高いサイトというのは、文章がおもしろい、読みやすい、文字数が少ない、わかりやすい、話題性がある、といったものだろう。
「批判」というスタンス(=リアクション)である限り、批判の対象の説明、批判内容、その根拠をしめさなきゃいけないわけで、あっち側に行った人、行きかけてる人、ニュートラルな人にはなかなか批判の意図は伝わらない。
あるニセ科学的内容のものに対し、
「そんなことあるわけねーだろ、バカ」
というようなコメントがついてることを見かけるが、信者側、中立側にはそれでは響かないと思う。
そういう寂しい考え方しかできない人もいるのよね〜(by信者)
でも実際、本当のことを知りたいと思っている人は少なくないはずだから、その下地(理科の勉強とか)形成ができる環境づくりも大切だよな。
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●田崎晴明氏
フォーラム開始にあたってプリント(「相対主義的な科学観」を巡って)が配布されていた。
【指導要領解説に見る相対主義的な科学観】
まず、指導要領解説(こうやって児童を指導しなさい、という先生を対象にした本)より抜粋。※これは平成11年度のもので、現在は削除されているそう。
○ 見通しをもって観察、実験などを行うこと
(中略)
「見通しをもって」とは、以下の意義を含意している。
第一は(中略)
第二は(中略)
第三は、自然の事物・現象の性質や規則性、心理などの特性に対する考え方の転換である。(中略)つまり、自然の特性は人間の創造の産物であるという考え方である。
自然の特性は、人間の創造の産物であると考えてみましょう、ということだ。すべての事象は人間が創造し定義づけた、人類が滅びたらすべてが存在しなくなる、というような考え方。
かなり奇妙な考え方で、これが指導要領解説に書かれていることは非常にナンセンスであるが、こういった考え方が生まれた背景には何があったか。
そこで次に三人の思想家の紹介があった。
【相対主義的な科学観の「開祖」−クーンとファイヤアーベント、村上陽一郎】
クーンは、その著書の中で、原子論が提唱された時の混乱を「化学者たちは自然を理論に合わせる必要があった。」、「(結局)化合物の組成のパーセンテージさえもが以前とは変わっていた。」というように書き、理論があって自然がある、というようなことを著していた。
またファイヤアーベントは、(田崎先生の資料にある要約によると)「科学を進めるための定まった方法はない」(これはマトモ)、「だから、科学を進めるときにはなんでもありなんだ!」(オイオイ!)という主張をしていた。
村上陽一郎では、自著の中でフロギストン説を巧みに紹介することで、読者を「その時代に共有される科学的理論は、単に多くの科学者がその理論を信じているからなんだ」と理解させるような記述が見られる。
…日本では、村上陽一郎の影響が大きいのではないだろうか?
最後にがっかりする話。
日本理科教育学会編「これからの理科授業実践への提案」より
事実はそれを説明する理論が変われば異なってくる、と考えることができる。つまり、事実は理論によって変わる。
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田崎先生の講演は、ちょっと疲れたことに加えプリントもあったので、なるほどね〜と気軽に聞いてた。なので、ノートもほとんどないし、聞いた話はちょっと違ったような…--;
とにかく、「何でもアリ」という考え方は、出発点としては有り得ても、それによって今あることを否定したり、不確かなことを認めたりするのはおかしい。
現在、証明されていること(=科学的事実)を合理的に取り入れて考えるようにしないと。
例えば、何でもアリな考えとして…。
「地球は丸い」という話は最初笑われたが、後から科学的に証明され、認められた。同じように、水が気持ちを理解することが後々科学的に証明される"かもしれない"(人によっては"だろう")。だから、それを否定するということは前向きな科学的精神がない!
みたいな。
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●小内亨氏
記事が長すぎるので別の記事に改めました。



